放浪記

作成日 愚呑

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2003年・記

かき氷製造のバイト(時期不明1966年頃?)
「赤城しぐれ」ではないがこのカキ氷が出始めの頃、汚いカキ氷製造会社でバイトをした。
大きな氷をある程度の大きさに切り、それを電動カキ氷器でカキ氷にするのである。
出来たカキ氷を大きな器に入れ、シロップなどをぶっ掛けかき回し、手で1個1個カップに入れていくのである。カキ氷を入れたカップは10個くらい並べる木の枠に入れ、小さな流れるプールのような中に浮かべて流すのである、終点へ到着するとしっかりとガチガチに凍った「カキ氷アイス」が出来上がるのである。
衛生管理もへったくれも何も無いのである、便所へ行っても手をサッと洗う程度で、暑い時にはつまみ食いして戻していたものである。きっと大腸菌がウヨウヨいたのでしょうね。
昔の人は丈夫に出来ていたんですね、身体が抗菌体質だったですね

キャディ(1966.8)
高校生1年の夏休みにゴルフ場のキャディを1ヶ月間アルバイトをした。
中学の頃、そのゴルフ場から林へ抜けたゴルフボールを盗みに行っていたことがきっかけで、小耳にアルバイトを募集していると聞いて行ったのである。
当時日給520円だったと記憶している、ゴルフはやったことが無いのでよく分からないがイン・アウトで18ホールを周るとちょうど1日である。
新聞代が月580円だった。
その頃は、ゴルフが出来るとなると大層なお金持ちだったのであろう、がチップをくれた人は皆無だった。
金持ちはケチであることを身を持って体験出来た貴重なバイトであった。
以来、私はゴルフはやらないことに決めているのである。

新聞配達(1967.5-1969.2)
学校が移転し近くなったので新聞配達を始めた、読売新聞であった。
なぜ読売新聞を選んだのかは、近所であったということだけである。自転車で150軒の配達、朝は4時起き、学校が終わると夕刊のためにまっすぐ新聞屋へ直行、給料は5,000円であった。
真面目に休まず働いていると朝日新聞からスカウトされた、給料15,000円、スーパーカブ付き(24時間貸与)という条件である。二つ返事で「はい」と言った。
しかし、スーパーカブ付きということで配達区域がべらぼうに広くなったのである、それでもバイクに乗れるのが楽しく、給料も上がりにこにこである。
冬の朝は厳しい、今よりもずーと寒い、衣類も今のような軽くて断熱性の効いたものなどは無い、道も砂利道ばかり、でも交通量は今の一割程度である。
新聞休刊日は年に3回程度、日曜も夕刊があった。夏休みでもなんでも朝夕4時には新聞屋へ入らないといけない、雨の日はつらい、砂利道ゆえに荷台に積んだ新聞がバラバラに落ちることがある、泥に汚れた新聞は配達が出来ない、店へ戻り交換、雪の日はバイクが走れない、歩いて配達、当然学校は大遅刻。最後の一軒を配り終えた後に吸う一服は美味かった(;^_^;)

日雇い労務者(1969.2-3/1971.9)
職安(現ハローワーク)の前に朝5時半頃に行って一斗缶焚き火で暖まっていると、マイクロバスから降りた手配師のおっさんが何人も来て「兄ちゃん、土方・弁当付三千円」と叫ぶ、あっちのおっさんは「はしけ・弁当付三千五百円」などと寄ってくるのである。
体格も良く若い自分は人気の的である。
当時、このあたりは京葉工業地帯として開発盛んな頃で、仕事はいくらでもあった。
マイクロバスに数人詰め込まれて、現場の飯場へ直行、たいがいは土方である。
8時半からスコップを持って仕事を始め、10時には一服30分、12時前には飯場へ戻り1時まで昼食、3時に一服30分、4時半には上がり、マイクロバスへ乗せられ職安へ戻る。戻る途中に手配師が6割はピンはねした残りを日当として各自へ配るのである。職安到着で、明日もよろしくとピンはねされた残り少しの日当を懐へ解散。
しかし日雇い同士慣れてくると、仕事の楽な楽な方を先輩が教えてくれるのである。
欲気を出して、日当四千円の荷役をやったことがあるが、これは酷かった、小麦運搬船の船倉に入り、上から降りてきた掃除機のホースの口のようなサイロへの吸い込み口(60cm程度)へ小麦をスコップで寄せていく仕事である。埃と汗と足元の不安定と逃げ場の無いことである。外から眺めていると船の中でそんなことをやっているなんて誰も想像できないのである。逃げようにもないしろ船倉の中である。
まあ、お互い日雇い同士、出世があるわけじゃなし、ごまするところがあるわけじゃなし、気ままな稼業と言えば気楽である。
ただ手配師の上前の方が日当より多いと言うのが腹立たしい。
しかし、新日鉄君津製鉄所の”あの建物”の基礎は自分が掘ったと言う誇りがある。
その後、何回も同製鉄所へ出入りはしたが、”あの建物”がどれだったかは記憶から蘇らなかった

航空自衛隊熊谷基地(1969.3-1969.11)
工業高校電気科C組の優秀な”山田太郎「新聞少年」”として東大受験を目指したのである。
しかし、学園紛争盛んなころ、ちょうど東大入試が中止になり、東大受験を断念、そんなときに巷から流れて来たのが”高田ワタル「自衛隊へ入ろう」であった。
なんだ同じ国立ではないかという訳で、自衛隊受験へ急遽変更、地連のおじさんのジープ でお受験地へ、いやー送迎付きとは凄い自衛隊もやるものだと感心する。 東大と同じ国立、きっと試験も難しくて落ちるのではと少々不安であった。 どうにか名前を漢字で書いて、3桁の足し算引き算の試験と作文を書いて終了(^_^;;;;
祈る気持ちで合格の連絡を待つこと数日、貴殿は特に優秀な成績であるので特別職国家公務員として是非とも採用させて欲しい旨の連絡があった。
青いバスに乗せられたが最後、埼玉県熊谷市の基地へ放り込まれたら、後はコンバットの 世界である。「パンパカパッパッパ」の朝6時から「パーパーパー」の夜10時まで訓練、訓練 また訓練、班長さんはスーパーマンかムキムキマンのような奴で、虚弱体質のわたしとして は地獄のような日々、脱走を計画したのは毎日である。
何かへまをするとすぐ「班長室へ来い」「腕立て100回」うーん楽しかったなぁ。 最後は「五輪書」じゃなく「五厘頭」で卒業、憶えたてろよ(–メ)オンドリャア
生涯で銃を打ったのはこの時だけである、全15発カービン銃であった、平和主義者のわたしとして標的には一発も当てなかった。打った後、今度は自分たちが的の下の豪に入り鑑的である、「ピューン、ビューン」と弾が飛んで来る、「お~~~~こえー」「おらやだ、こんな生活やだ、戦争なんかやだ」そんなこんなでお蔭様で好き嫌いも解消した、地獄の半年が終了したのであった。

行軍訓練

あとは前線で使いものにするための教育である、これはある程度自分の希望の職種が選択出来るのである。希望したのは「無線整備」であった。教育内容は全てが真空管である。
当時自衛隊が利用 していた無線機は全てが真空管なので止むを得ないのかも知れない。
オームの法則からスタートである、工業高校電気科C組を優秀な成績で卒業したわたしと しては少々あくびが出るが、恐い上官なので飲み込みながらお勉強する。
まあ、厳しい新人教育からは開放されたのがなによりの幸せであった。3ヶ月間の職業訓練が終わり、いよいよ前線への出発、これも自分の選んだ職種で空きが ある部隊があれば任務地は希望がかなう。
満州でないことを祈る。 という事で、人知れず寂しく、冬の寒さが厳しい稚内、網走、えりもと希望をしていたら、えりもが決まったのである。
人に言わせると遠隔地手当、寒冷地手当が高いからじゃないかと 言う不届き者もいましたが(^_^;;;;

航空自衛隊第36警戒群えりも駐屯地(1969.11~1970.8)
11月も末の15:00上野発急行青森行き「みちのく」、この列車に乗り一路青森へ、椅子は垂直である。大宮、福島、仙台を過ぎるころには客もまばらになり、椅子に横になれる状態であった、それでも身長のある自分としては足を通路側に出して横になる。
24:00ちょうど青森駅へ到着、着いた途端にいきなり運動会が始まる、唖然としている間にも皆、100m競争並に走っていく、そんなに急いで改札に向かってどうするんだろうと思っていたら、どうも向かっている先が違うようだ・・連絡船「十和田丸」へ向かっているのだと気が付いた時には手遅れ、二等船室の良い場所はもう確保されて座る所が無い、仕方が無いので椅子席へと向かう、これから深夜の4時間の間、横にもなれず椅子に座っていなければならないのかと運動会へ参加しなかった自分が腹立たしくなる。
そんなことを考えながら津軽海峡を渡る、未踏の地、北海道が刻一刻と近づいて来る、なぜか心が躍る。
そして待ちに待った函館に到着「うん、内地よりしばれる」といきなり北の言葉が出てのであった。朝の4時である。これからまだ12時間以上も旅を続けなければならない。
自分で希望したとはいえ、こりゃとんでもないところまで来てしまったというのが素直な感想である。
列車を乗り継いで着いたところが日高本線終着駅様似駅、そこから国鉄バスで襟裳町まで、もう日が沈んでいる。
海岸沿いに波しぶきを受けながらバスは向かう、襟裳へ着いた時には漆黒の暗闇に包まれていた、またそこから部隊のトラックで基地へ向かう、襟裳岬のちょうど中間地に所在する航空自衛隊襟裳駐屯地である。
上野を出発してから延べ30時間近くは掛かっただろうか、地の果てまで来てしまったというのが実感であった。
基地での業務は無線整備である、多重無線と言って電話回線用無線機器と航空機と地上管制との機器、それと基地間通信の短波無線機の整備である。
この基地間通信機器は短波を利用するので朝晩、送信周波数を変更するのであるが、そのため高周波コイルを手作業で交換するのである。なにしろ米軍が朝鮮戦争当時使っていた代物である、3000Vの電圧が掛かっているところであるが電源を落とさずに交換するので、一度だけ感電し指先が黒く焼けてしまったことがある。
まあそんなこともあったが、ほとんど毎日毎日掃除機と刷毛を持って無線機の掃除が仕事であった。当時アマチュア無線の免許も持っていたので、自衛隊の設備、技術の遅れに夢も希望もだんだんと薄れて行くのであった。

電器屋店員(1970.10-1971.1)
3軒ほどの店舗を持つ電器屋の店員をやった、何をやったかと言うと配達とアンテナ建てばかりであった、当時カラーテレビが急速に普及し始め、方式はまだトランジスタではなく真空管式だったので、非常に重く、団地の5階などへ配達するのは大変であった、テレビを受信するには当然アンテナが必要である。そしてアンテナは当然屋上設置となる。高いところはそれほど苦手では無いが、やはり団地の屋上は高い、雨が降ろうが雪が降ろうが、毎日屋根ばかり上がっていた、これでは電器屋ではない、屋根屋である。
大晦日には何台か売れて、今からすぐ見れるようにしろと言う客がいて、大晦日の晩は星を見ながらアンテナを立てていた。
電気屋は儲かる、テレビが壊れたと言うので取りに行き、裏ぶたを外し原因らしき真空管を外し、足を磨き取り付ける、良く映る、接触不良である。その真空管をもう一度ピカピカに磨き配達、「真空管を取り替えて置きました」と3,000円(・・;)ある時、大雨が降り、倉庫に水が入ってしまった、先輩と二人でびしょ濡れで片付けを済ませ店に戻ると、社長の開口一番「品物は大丈夫だったか?」、その一言にカチンと来て辞めてしまった。「ご苦労さん」の一言が言えねぇのか、馬鹿野郎と思ったのである。
その電器屋は姿かたちも無くなってしまった。

日産の季節工(1971.2)

日産の期間工をやった、平塚の日産車体という会社であった、集められた期間工はそれぞれ寮に入れられた。わたしの入れられた寮は一般の崩れかけた木造アパートの6畳一間である、そこへ一室に4人も詰め込まれたのである。
そして職場はいきなり夜勤からスタート、夜の10時から朝6時まである。夜勤など未経験(えりもで経験してはいるが、ほぼ睡眠夜勤であった)で夜中に昼間と同じ量の仕事をするなんて想像もつかなかった、配属された職場は車体の型枠組みである、ラインのスタート地点と一番厳しい作業の場所を受け持たされたのである。分刻みで動いているラインへ自分が車体の鉄板を型枠の中へ組み込み、あとのラインのものが、それぞれスポット熔接をしていくのである。
中食時間以外は止まることをしないラインに振り回され、朝方の日の出頃には睡魔が襲いフラフラの状態になるのである。
やっと勤務時間が終了して壊れかけたアパートへ戻ると6畳一間で4人である、お互いのいびきで眠れる状況では無い、一週間目にはもう生きているのがやっとの思いで、
これでは殺されると逃げ出してきたのである。
正社員と季節工との差は天国と地獄であった、季節工などは人間としての扱いはさらさら考えていないようであった。
その日産が今日のようになったことには、深くうなずけるのである。

※季節工と期間工
元々は農家の閑な季節に出稼ぎとして採用していたのが始まりのようで、「季節工」と言っていた。いつの間にか新聞の募集などは「期間工」となっている。

トヨタの季節工(1971.3-1971.8)
日産を逃げ出し、トヨタへ行った。トヨタといえば豊田市である。愛知県である。
本社工場へ配置となり、寮はりっぱな鉄筋作りの独身寮である。本工(本採用の工員・正社員)と一切の差別は無く、部屋も本工と同部屋である。食堂も寮にあり工場にありで、恐怖の夜勤も無く2交代だけであった。
与えられた仕事は、トラックのデフカバーと言う代物で鋳物で出来上がったものを研削をする仕事である。素焼きの物を機械にかけ研削し製品として1時間に最低8個仕上げることが果たせられた義務であった。
最初の頃は8個作るのは大変な作業であったが、だんだんと慣れてくると1.5倍の12個まで作れるのである、馬鹿な性格で何個までいけるかと一人で挑戦して楽しんでいたのである。会社の思うツボであった。
12個作って置いていても12個持って行ってしまう、次の時間も12個を持って行ってしまう。自分としては8個だけ持って行って貰いたいと切に希望するが、カンバンのトヨタは持って行ってしまうのである。
そんなことを考えているうちに6ヶ月満期まで持ってしまった、3食うどんで過ごした6ヶ月、毎日残業4時間で良く持ったものだと自分の身体を誉めてあげたい。10キロほどダイエットが出来て、貯金が30万、最後には組長さんが(工場内の組長です、あっち系じゃないよ)送別会まで開いてくれて、感謝感謝です。
「日本一週が終わったらここへ帰ってこいよ」と、涙を流して言ってくれた人がいる会社です。今のトヨタをみれば当たり前と思います。

イージー・ライダー
トヨタを辞めた、夢に見たオートバイ(YAMAHA XS-650)も月賦で買った、トヨタで貯めた残金は12万円、さあいざ行かん。

おっかさんに見送られながら家を出たのは9月2日、後ろには台風が迫っている、もう風が強い、オートバイと風は友達だけど、台風とは友達になりたくない、台風に追いつかれないよう走りに走って一気に仙台松島まで来てしまった。どこかテントを張らなければと松林の海岸線をうろうろ、夜の9時である。さあ寝るぞ。
翌日、どこをどう走ったかは記憶に定かではないが下北半島大間からフェリーに乗ったのである。
えりもの仲間を後ろに乗せて一緒に道内を周る予定なので、予定日までには是が非でも到着しなくてはならない。
函館からは一路、追い越し違反で捕まりながら室蘭、苫小牧を抜け日高を目指す、走りに走りえりもに到着、なつかしの下宿へ転がり込む、翌日からは道内一周だ。
未来ある若き青年二人を乗せたXS-650はえりもから黄金道路を抜け広尾に向かう、黄金道路とは名ばかりで、いくら金を注ぎ込んでも波に洗われ崩壊してしまうから付いた名前である。砂利道のガタガタ道であった。
帯広へ向かう道は牧場を両手にはさみ延々と快適な道が続く、屈斜路湖湖畔が今日の宿である、翌日は摩周湖などを巡り、網走、知床まで、今では羅臼から宇登呂までの道があるが当時は無く、釧路を断念したのであった、知床五湖までは砂利道の林道ですれ違う車もまばらで知床の山々を見ながら素晴らしい自然との出会いを堪能する。熊が出そうなキャンプ場はシーズンも過ぎ、私たちだけであった。
熊にも襲われず、翌日もすっきりと目覚め、一路稚内へ旅発つ、途中大雪山層雲峡に立ち寄り自然の偉大さに驚き、感動し震えたのである。

稚内へは夜も10時頃に到着、宿を探すために取りあえず駅に向かう、街はもう寝静まっているような雰囲気だ、駅も閉店のような雰囲気だ、仕方が無いので看板に電気が付いている宿を恐る恐る訪ねると、部屋も食事も無いが女中部屋なら空けてあげるということでお世話になる。久しぶりに風呂に入った。
利尻・礼文にも行きたかったが仲間の休暇の日数が少なく断念、一路札幌に向かう、その後、秋田の仲間のところへ立ち寄り10日ほど遊んでしまい、路銀も無くなり季節も寒くなりつつあったので実家へ戻ることにしたのであった。
日本一周の夢は半周で潰えたのである

大型長距離運転手 1974.11-1976.6)
大分県の別府である人と会い、よしと心に決め、稼ぐためには大型長距離が早いと大型免許取得のために必死になった、普通免許取得から2年で大型免許は取得出来るが6トン以上の大型に乗るには経験3年が必要なので、免許は取ったが乗れる日までが待ち遠しい・・。稼がなくてはと心だけがはやる。
いよいよその日が来た、先輩と大阪までである、初めてハンドルを握った11トン車はさすがに運転席が高い、馬鹿と煙はなんとかで殿様になったような気分である。
そして、長さといい幅といい家が動いているようなものである。1ヶ月間見習として先輩にいろいろと教わりながら仙台、福岡と走り回る、「こりゃ楽しいわ、全国を旅して金がもらえる」と喜んで・・いたのは束の間だった。
ワンマンになると一人で走らなければならない、昼から荷を積んで夜に走り朝に顧客へ届け、降ろし終えると休む間も無く、帰りの荷を求めて走るのである。帰荷は出発前へ到着地の協力運送会社へ連絡をして確保して置くのである。
当然、手数料をはねられているので運賃は安い、空荷で帰るよりは油代になればというので仕方が無い、給料は殆どが歩合なので売上にスライドする、出来ることならば運賃の高い仕事が欲しい。
それでも手取り20万は下らない、ある人とはなんとかなりそうだ。
しかし、段々と夜間走行が辛くなる、福岡よりも札幌の方が津軽海峡で休める分だけ楽である、夏場の福岡は最悪なのだ、それは向かっても向かっても西陽が射すのである、当然クーラーなど無い時代だ、夜通し走って船坂峠のカンカン(警察のトラック重量計量所)を無事に通過し、岡山市内の朝の渋滞を避けるために吉井川沿いの路肩で仮眠を取る、眼が覚めると昼近くになるのでどうしても太陽と友達になる、早く夜が来ないかと祈るばかりである。
国道2号線をひたすら走っているとパタリと渋滞で動かなくなる、事故である暫くすると反対車線からは車が来だす、だが、こちらは全く動く気配が無い「誰だ寝ている奴は」、深夜の事故渋滞では列の中で必ず運転席で寝てしまうドライバーがいる。
中には後ろのベッドで熟睡しているのもいる。反対車線のドライバーがクラクションで起こすのだが起きられないほど熟睡しているのである。

会社の給油所/新潟の帰荷(フッコウ板-工事中に道路上に敷く板)

函館から札幌へ向かうには国道5号線を長万部から小樽へは向かわず、虻田から細川たかしの歌を唄いながら(嘘、当時は世に出ていなかった)洞爺湖を右手に見て(夜なので見たことは無いが)中山峠を越えての国道230号線を使うのが通常である(当時は)、真冬に札幌で20トン(違反)ほど積んでの戻り、中山峠の上りで上っているのに車は下がっているという現象に血の気が引いたことがある。
横着してタイヤチェーンを装着しなかったので滑っていたのであった、片側は奈落の崖である。トラックは横になりながら段々と崖に向かうではないか・・・・・
大急ぎで運転席を下りたのはいいがツルツルして立てない、それでもなんとか輪止めを掛けたが駄目、ほぼ道路をふさぐ形で横になり路肩の除雪の塊に荷台がぶつかり止ったのであった。あの時除雪の雪が無かったらと想像はしたくない。

教訓・その後、雪を見ると早めにタイヤチェーンは装着したのである。

大故障
 国道9号線上り但馬トンネルとループ橋間にてエンジンオーバーラントラブル、ループ橋下のドライブインにて1週間滞在。
大病気
 大阪から仙台へ向かう東北道上にて風邪にてダウン、パーキングエリアにて24時間動けず。
食中毒
 北海道戻り仙台市泉近辺にて食事をした豚鍋定食が中ったらしく、いわき付近から脂汗と寒気と下痢がひどくなる、日立市で消防へ駆け込むが「正露丸」しか無いという「救急車も奥へしまって出せないと」(^_^;)\(‘_’) オイオイ…
病院を紹介してもらい、注射を打って少し快復する。

帰荷ベスト3
 大阪尼崎―クボタの水道管
 岩手宮古―ベニヤ
 北海道―農産物
最長移動距離
 千葉―博多―名古屋―呉―廿日市―埼玉草加
最長定着期間
 秋田10日間
辞めた理由
 会社倒産

タンクローリー運転手[1978ー1998] 背景は浅間山

子会社出向(大型車整備)[1998-2016]



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